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巴中市の概況
   

 
 

四川省巴中市 〜 人口 317万人、 一人当たり GDP 22,000 元
巴中市の歴史
古くは、梁州に属した地。秦や前漢の時代、巴郡に帰属する。 後漢時代の永元年間(89〜105年)に、漢昌県が設置された。
そして三国時代。194年より父「劉焉」の跡を継いで益州牧となった劉璋により、対漢中の張魯に備えるべく、最前線として巴西郡が設置され、ここに属すことになった。しかし、215年3月、魏の曹操が散関より、武都郡を経由し、漢中に攻め込んで来る。張魯は弟「張衛」を先発隊として陽平関にて曹操軍と交戦し、一時的に撃退するも、魏将の夏侯淵の奮戦で陽平関を突破される。張魯は降伏を検討するも、部下の閻圃の進言「追い詰められて降伏しては軽く見られる」との意見を入れ、蜀領内のこの巴中の地に逃走してくる。劉備は214年末にようやく劉璋を降伏させ、益州牧になったばかりで、益州領内を完全掌握しているわけではなかった。こうした蜀の混乱期にあって、張魯はこの漢中と蜀の空白地帯に避難することができた、といえる。この混乱期にあって、劉備から忠義の士として高く評価された黄権が進言する。

漢中、三巴地区の大部分を掌握した曹操は、張魯が改名した漢寧郡を漢中郡の地名に戻し、漢中郡から安陽・西城の2県を分けて西城郡とし、錫と上庸の両県を分けて上庸郡を新設して、それぞれに太守と都尉を置いて統治させた。215年9月の時点で、三巴の七豪族のうち、朴胡と杜?が曹操に恭順している(司馬懿や劉曄らはこのまま体制の整わない劉備の益州全体への攻撃を進言するも、曹操は深追いを避けるべく、早々に撤兵してしまう)。 護軍として巴中方面に派遣されていた黄権は、曹操に三巴の太守として任命された杜?・朴胡・袁約らを撃破することに成功する。

ここにきて、漢中や益州北部の巴東西を魏に攻略されてしまった劉備は、荊州2郡(長沙・桂陽)を呉の孫権に返還することで呉側と和議を結び(215年)、まずは蜀内の国固めを最優先することとなった。その最優先事項は、漢中と巴東西一帯の魏勢力の排除であった。 この作戦は、すべて黄権が練った作戦と言われており、最終的に、蜀軍は法正を軍師として漢中侵攻作戦を決行する運びとなる。益州に隣接する巴東西の両地区に進駐する張?軍に対峙すべく、劉備は巴郡江州(今の重慶市)に滞在する(荊州での呉との和議を締結した直後に長江をさかのぼって蜀に戻ってきた)。と同時に、張飛を派遣し、「張?」率いる巴東西一帯の魏勢力の駆逐を命じる。張飛と張?は、巴東西一帯の宕渠・蒙頭・盪石において、50日以上に渡って対峙を続けた。

蜀の建国期のこの時期が最も劉備にとって過酷な時期であったと言えたが、法正、黄権らの旧蜀の賢人らの働きにより、不慣れな地理と人材をうまく使いこなして、窮地を挽回することに成功できている。そして、劉備により巴西郡がさらに分割され、宕梁郡が設置されると、巴中一帯はこの管轄下となった。益州、巴一帯での統治が落ち着いた3年後の218年、法正の建議を受け、劉備は漢中、武都方面へ進軍することになる。翌219年には魏軍が撤兵し、この年、劉備が漢中王を宣言することになった。

三国時代の後、この巴中の地には帰化郡、大谷郡が設置され、順次、これらに帰属することになった。時は下って、南北朝時代の北魏の時代、514年に、巴州が置かれ、その管轄下となっている。その後も帰属行政区の変動はあったが、そのまま県役所所在地として清末まで存続することになる。中華民国建国の翌年 1913年、全国で州制が廃止され巴県が設置される。中華人民共和国の時代の1993年、巴中地区が成立し、達州市に帰属していたが、 2000年に地級市に改編され、巴中市が誕生する。

この地も、現在は城壁はすべて撤去されていしまっている。街の路地に少しばかりの名残が残る程度である。中城北街、文廟街、厳公廟街(前漢時代に実在した厳子陵を祭る)、鼓楼街、本院街、魁皇楼巷、東城街、小東門街、大東外街、南門街、南泉寺街。

巴中の周り、光霧山は、中国の一番大面積、紅葉観光地である。

 

 

 

 

 

 

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