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綿陽市の概況
   

 
 

四川省綿陽市城区 〜 人口 544万人(市街区 127万人)、一人当たり GDP 32,000 元
劉 邦の前漢時代(紀元前201年)に広漢郡が設置されて以来、綿陽市は 2200年の歴史を誇る街である。ここはかつて、「?県」と呼ばれていた。紀元前106年、この広漢郡はその郡役所を?県(今の 広漢市)から 梓潼県 へと移される。 そして、後漢の115年、少数民族反乱に対処するため、益州首都機能および広漢郡役所は?県(今の綿陽市)へと一時的に疎開され、 益州都としての役割も司っていたこともある。乱の平定後、再び、全機能が転出されてしまったようである。

三国時代、劉備の蜀建国後の217年、広漢郡の北側が分離され、梓潼郡(群役所は梓潼県城内に設置)が新設される。 さらに225年、蜀は広漢郡の残りの部分を、東西に分割する。新設した東広漢郡の郡役所は?県に設置された。 蜀滅亡後、梓潼郡と東広漢郡は廃止され、再び、広漢郡に統一される。その後、晋や五胡六国時代の戦乱の中、行政区が度々変更される。隋代以降にようやく、 益州地方に平和がもたらされることとなった。これ以降、?県は「綿山の南」に位置するということで、「綿陽の地」と呼ばれるようになったようである。唐時代の詩聖「李白」は、この綿陽出身。

かつての綿陽古城(?県城)については、かつての城壁跡は残されていない。 しかし、ネット上で新聞記事を発見した。それによると、2006年8月中旬ごろ、実験小学と原乳メーカーの食品工場の中間部分を分離する壁の箇所から、 完全な姿の古城壁の石垣(49m、高さ 5.7m、矢打ち壁 1m、40cm、広さ30cm)が発見された。このとき発見されたものは、秘密結社化した「白蓮教」の反乱軍が綿州攻撃を計画しており、これに備えるべく、 清代1800年に、当時の綿州知事が百姓らに命じて修繕させた城壁跡であるという。 わずか40日で2.8kmにも及ぶ城壁の補修を完成させたという。完成当時、城壁の高さは、5.7m、断面の長さは下辺 9.6m、上辺 4.2mで、 5つの城門を持ち、5つの砲台を有するものであったという。

富楽山は今日では、完全にレクリエーション・パークと化しており、 青少年センターや動物園まで開設されている。この公園の入り口には、忠義園という入り口広場が あり、ここに劉備、関羽、張飛の3人の巨大立像が訪問者を出迎える。「三国時代」の スタートともいえる桃園の誓いを表現しているようである。この?城会の翌年には、劉璋との対立が決定的となり、劉備軍が成都へ向けて進軍する際、 葭萌?という場所から出撃して、この張任が守る?城を攻略(張任らは?城まで撤退)し、 そして、さらに南の成都へと兵を進めることになる。その後、地元の人々は、ここで劉備が酒宴の接待を受けて、 そして蜀の地を収奪する様をもじって、この山の名前を、「富楽山」と呼ぶようになった、 ということである。この山には、「皇叔湖」なる池も残っており、劉備蜀皇帝にちなんでいる。 冷源洞という石製の洞穴は、劉備が当時、避暑として使ったらしい。

この富楽山の対岸へ芙蓉橋を渡ってみると、ここ「芙蓉漢城」地区一帯は、 観光地化をもくろみ、伝統的な中国風建築を外観とする商店街が配せられていた。さらに、芙蓉橋の付け根の広場には、三国志エピソードの石碑が複数、飾られていた。

綿陽市の主な観光地は、千佛山、白龍洞、李白記念館、七曲山大廟など。

 

 

 

 

 

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