ホーム   パンダ知識    パンダ保護区    パンダ日記   パンダ写真館 パンダ観光ツアー       
パンダの発現歴史
   


パンダの発現歴史を話すと、話が長くなります。今まで最古と見られるの中国雲南省の禄豊と元謀で発掘されたパンダの化石で、地質から見る年代は800万年前の中新世晩期です。過酷の生存競争と自然選択に負けて絶滅した同時代の数多い動物と比べ、強者とも言えるパンダは「生きている化石」としていままで生きてきました。

文字があって以来パンダに関する各種の言い方があることから、中国人のパンダに対する認識が大昔からあることが分かるでしょう。「書経」にはパンダは「貔」と呼ばれ、「毛詩」には「白羆」、「蛾眉山志」には「貔貅」、「獣経」には「貉」、李時珍の「本草綱目」には「貘」など、昔からパンダの呼び方がたくさんありました。

パンダは、中国では古くから知られてきました。秦王朝の爾雅辞書は、「貘(mo)」として知られたパンダについて、紀元前220年頃に記述している。また西漢王朝(紀元前206年−西暦24年)には、西安の皇帝の庭に1頭のパンダが飼われていたとされています。最初の唐王朝(西暦618−907年)の皇帝であった唐の太宗の孫は、友好のしるしとして2頭の生きたパンダを日本に送ったとされていますが、以後1950年代まで日本にパンダが来ることはなりませんでした。

一方、野生のパンダについてはほとんど分かっていませんでした。1970年代半ば、竹の一斉開花?枯死がパンダの生息地北部一帯で発生し、多くのパンダが餓死した。この現象は何年かに一度起こるもので、竹は実生からの発芽のみとなります。当時の生息数(個体数)調査によると、生息数は約1000頭と明らかに少なく、中国政府にパンダの危機的状況を警告しました。国の宝と考えられる種の生存を懸念し、そしてその将来に責任を持つ立場にある中国は、1978年にパンダの研究を開始した。フィールドキャンプが、臥竜保護区の険しい山地林の斜面に造られました。

1869年3月、フランスの博物学家アルマンド・デイビッド神父(1826.9.7?1900.11.10)は、四川省雅安宝興県のケ池溝チャーチの近くで考察した際、地元の人に白熊や、花熊と呼ばれた動物の気配に気づきました。地元のハンターの力を借りて得た標本から、神父はこの動物の体に白黒の毛が混ざっていて、足の裏に毛が多くて、外見が熊に似ていることが分かりました。その後フランスまで運ばれたこの標本と骨格が、パリの自然歴史博物館科学家アルフォンス・ミラー・エドワーズに新種だと鑑定され、「猫熊」と名付けられました。これに関する鑑定報告は1869年の「パリ自然歴史博物館の新ドキュメント」に発表されてから、野生に隠れていたパンダが人間の視野に入ってきたのです。